波浪観測の原理                戻る


1.はじめに
短波海洋レーダは表層海流だけでなく波も観測することができます。すなわちドップラスペクトル(ドップラスペクトルについてはここを参照)から波の方向スペクトル(波浪スペクトル、意味は後述)を推定することができます。ここでは波浪スペクトル推定原理について簡単に紹介します。詳細はHisaki(1996), Hisaki(2005), Hisaki(2006)などを参照して下さい。

波浪計測というのは、実用面でも重要にもかかわらず、短波海洋レーダによる波浪計測に関する研究は、海流計測に関する研究に比べてあまり盛んに行われているとはいえません。海外では唯一シェフィールド大学(英国)のグループが短波海洋レーダによる波浪計測に関する研究を精力的に行っています。一方米国ではあまり盛んでないようです(もっともコーダ社の海洋レーダにも波浪計測のソフトがありますが)。
この理由は、
・海流はここに述べたように簡単に求められるのに対して、波浪スペクトルをドップラスペクトルから求めるには少し複雑な計算を要する。
・海流は一次散乱から求められるのに対して、波浪スペクトルを推定するには二次散乱を用いる(一次散乱、二次散乱についてもここを参照)。
であると考えられます。

当研究室における研究が,これらの海外の研究と異なるのは
(1)ドップラスペクトルと波浪スペクトルとの関係を表す積分方程式を近似せずに波浪スペクトルを計算する。
(2)一基のレーダで波浪スペクトルを求めることが可能である。
(3)二次散乱データが検出できない場所があっても,波浪スペクトルを力学的に補間することが可能である。

という点です。
これらはこの手法の長所ですが、短所としては、計算時間がかかり、計算機のメモリも多く使うという点があげられます。


2.波浪スペクトル
海の波は写真1のように,非常に不規則な形をしています。


写真1

こうした不規則な波であっても図1のように正弦波(三角関数)の重ね合わせによって,不規則な波を表現することができます。各々の正弦波を成分波ともいいます。それらの成分波のエネルギー(密度)を,その成分波の周波数及び進行方向の関数として表したものが波浪スペクトルです。


図1
海洋表面波の表現
海洋表面波は様々な波長(周波数)及び方向の正弦波(成分波)の重ね合わせとして表現。


例えば図2の左(a)の成分波に対して,その周波数(波長によって決まります),進行方向から図2の右aが決まります。そして(a)の成分波のエネルギー密度がわかります。図2の左(b), (c)の成分波も同様にそのエネルギー密度がわかります。すなわち海の波のような不規則な波は,図2の右図のような周波数及び進行方向の関数(あるいは二次元波数ベクトル)として表した波浪スペクトル(方向スペクトル)によって記述されます。


図2


(補足)
・ここでの波浪スペクトル(方向スペクトル)は,海面の高さの二次元スペクトルである。
・画像処理の分野で使われる二次元スペクトルとの違いは,波は動いているという点である。二次元画像の二次元スペクトルは波数(空間周波数)平面の原点について対称である。しかし波浪スペクトルは原点について対称ではない。
・本来波浪スペクトルは二次元波数ベクトル及び周波数の3つのスカラー量の関数である。しかし波数と周波数には関数関係(分散関係という)がある。従って波浪スペクトルは,周波数及び進行方向(波数ベクトルの方向)の2つの量の関数となる。

3.波浪スペクトル推定の原理
一基のレーダからはドップラスペクトルは,図3のようにレーダを中心とする極座標格子点上で得られます(計算量を減らすため,格子点の個数は減らしています)。波浪スペクトルもこの極座標格子点上ごとに得られます。得られる波浪スペクトル値は,極座標上の位置及び周波数,方向の4つの量の関数となります。波浪スペクトル値は,4次元空間(位置座標−周波数−方向空間)の格子点上ごとに得られます。


図3:Aはレーダの位置、Kyは気象庁波浪観測点、図3の16個の極座標格子点において波浪スペクトル、海上風速・風向を求めた (Hisaki(2005)より)。


図4のようにドップラスペクトルは一次散乱,二次散乱及びノイズに分けられます。


図4:ドップラスペクトルの例。図3のあるビーム方向の4点の格子点におけるドップラスペクトルをずらして描いたものである。横軸は規格化したドップラ周波数。縦軸左はレーダ(図3のA)から格子点までの距離。縦軸右はドップラスペクトルの強度(dB)。図中Fは一次散乱、Sは二次散乱を表す。波浪スペクトルなどの計算には、このFとSにおけるドップラスペクトル値を使用した。


ドップラスペクトルから波浪スペクトルを得るには以下の関係を用いました。
(1)一次散乱と波浪スペクトルの関係式
(2)二次散乱と波浪スペクトルの関係式
(3)エネルギー平衡方程式(波浪スペクトルを予測するための式)
(4)海上風の二次元連続の式(水平非発散)
(5)周波数−方向平面における波浪スペクトル値の正則化条件
(6)極座標平面における波浪スペクトル値の正則化条件

(1)は「一次散乱の大きさは,ブラッグ散乱に関与する成分波(電波波長の半分の波長で電波進行方向或いはその逆方向に進む成分波)の波浪スペクトル値に比例する」というものです。(2)は「全ての成分波が二次散乱に関与している」ことを定式化したものです。二次散乱は, 波浪スペクトルの積分形で表されます。数値計算のために,この積分方程式は,4次元空間の格子点上の波浪スペクトル値によって表されます。
(3)について,エネルギー平衡方程式とは, 波浪スペクトルを予測するための式です。波浪スペクトルの時間変化は,波の伝播,風による波のエネルギー入力,波が砕けることなどによる波のエネルギーの消散,成分波同士の相互作用による成分波間のエネルギー交換などによって表されます。エネルギー平衡方程式において,波浪スペクトルの時間変化をゼロとした式を用いました。この式には,波浪スペクトルの他に海上風速・風向が含まれています。
(5),(6)の正則化条件とは,積分方程式を解くのに用いられる条件です。多くの積分方程式の数値解は,観測値のわずかなノイズにも敏感で不安定です。この不安定性を回避するために正則化条件というものを条件として加えます。(4)も正則化条件の一種といえるでしょう。
式(1)から(6)の未知数は,4次元空間(位置座標−周波数−方向空間)の格子点上の波浪スペクトル値及び位置座標(極座標)の格子点上の海上風速・風向です。位置座標(極座標)の格子点上の一次散乱,二次散乱から式(1)から(6)を用いてこれらの未知数を求めます。式(1)から(6)までの全方程式の数の方が未知数の数よりも多くなっています。従って,式(1)から(6)までの全方程式の重みつき二乗和を最小にするような未知数(波浪スペクトル値及び海上風速・風向)を求めることになります。
この研究の例では周波数分割数21、方向分割数18、極座標格子点数16なので未知数の数は
21×18×16(波浪スペクトル値)+2×16(海上風速・風向)=6080個 になります。

4.結果
図5にレーダから求めた波高と気象庁による観測値との比較を示します。ここでの波高とは有義波高のことです。有義波高の定義はここあるいはここにありますが、レーダから波高を求める場合、得られた波浪スペクトルを周波数及び方向で積分し、その平方を4倍することによって波高は求められます。この図の例では相関係数0.87、rms誤差0.52mとなっており、他の研究例とほぼ同じくらいの大きさです。


図5:上:レーダから求めた波高(実線)と気象庁観測値(波線)の時系列。時期は1995年8月から9月。
下:レーダから求めた波高(縦軸)と気象庁観測値(横軸)の比較(散布図)。
Hisaki(2005)より)

また図6のように波浪スペクトルを周波数及び方向の関数として求めることができます。

図6
波浪スペクトルの推定例。左は周波数スペクトルで図2右のような波浪スペクトルを方向について積分したものである。右はその積分値で波浪スペクトルを規格化した方向分布。
上は台風接近時、下はうねりが卓越している時のもの。周波数スペクトルの値は、左上の図に比べて左下の図の方が小さい。一方、スペクトルの値が最大となる周波数(ピーク周波数)はうねりの場合(左下)の方が低い(波長が長い)ことがわかる。また右下の図より、波はほぼ同じ方向に伝搬してことがわかる。
Hisaki(2005)より)